・・・以来約1年半、自分に合わない口で馬鹿呼ばわりされながらロングトーンばかり朝から晩まで意地になってやっていた・・・

               飯塚一郎

自分史「30年の思いを・・・」

 音楽に心打たれた最初は祖母の背中。「中国地方の子守唄」の寂しげなメロディーに涙が出た。感受性の強い子だった。

 小学3年の時、歌が上手だったのか・・音楽の時間に模範歌唱で皆の前でよく歌わされた。小学校卒業まで合唱部に所属した。その頃、ウィーン少年合唱団ならぬ島田少年少女合唱団が市で結成され一期生となり中学入学まで続けた。私のオペラ、アンサンブル好きはこのあたりの影響か・・。しかし、音楽室から聞こえる器楽合奏に魅かれていた。中学に入り迷わず吹奏楽部に入った。入部希望の新入生が先輩に楽器を決められた。「君は唇がプヨプヨしてるからユーホだな」ということで金管楽器との出会いはユーホニアム。中学3年間続けた。中学2年の時、顧問が変わった。吹奏楽コンクールでたいした成績を上げていない私たちに向って「君たちを全国に出す。打倒今津中学だ!」(実際に私が大学4年の時に教育実習でお世話になった年、全国大会初出場金賞をとり、以来何回か出場した)。皆唖然として顔を見合わせた。どんなに凄い先生かと思えば、3拍子をいつのまにか4拍子で振るような不器用な先生、しかし一生懸命だった。不器用でも情熱を持って一生懸命努力すれば願いは実現する。首藤栄市先生。生涯の師と出会った。トランペットに憧れ、楽器を変わりたいと何回かお願いしたがユーホの人数が足りないのと、上手かったので?変わることができなかった。

悩みの真っ只中
どことなく悲壮感が・・・
国立音大4年生の頃

高校で憧れのトランペットに変わる。吹奏楽部員は17名ほどで皆好き勝手に吹いていた(3年の時、無理やり部員を集め第1回定期演奏会を行い、今でも続いていることは嬉しい限りだ)。勉強そっちのけで楽器を吹くのに夢中になり音大進学しか考えられなくなった高校2年冬、浜松のヤマハに山本武雄先生が講師でいらしたので、毎週レッスンに通い吹き方、練習の仕方など基本を教えていただいた。高校3年、国立音大の夏季講習会で北村源三先生に出会う。緊張してもじもじしている私に衝撃の一言「俺ははっきりしないやつは嫌いだ!」。以来、シャイな私はできるだけはっきりものを言うように努力しているが、なかなか・・。

国立音大に入学した時も衝撃だった。当時アンブシュアをいじるのが流行っていたのか?・・多くの先輩が音ならぬ音をだしていて「これはなんだ!」と思った。今思えば安易に上手くなる方法?を選択したのだろう。私は歯並びの関係でマウスピースを唇のまん中にセットできず歪んでいる。入学前、北村先生には、いろいろあるかもしれないが口は変えるなよと言われていたにもかかわらず、1年秋、流行り?に負けてマウスピースの位置をまん中に変えてしまった。まともに音が出ない・・。以来約1年半、自分に合わない口で馬鹿呼ばわりされながらロングトーンばかり朝から晩まで意地になってやっていた。

3年のころ、当時東京フィルにいた津堅さんと出会った。よく大学に来られていてデュエット、オケスタ、酒・・&ピアノのレッスン!と面倒をみてもらった。弱音やタンギングの反応が悪く困っていた私に「人それぞれなのだから戻したら・・」。その日から前の位置に戻した。あの音出の反応の悪さ、鈍さの感覚は今も残っていて怖い思いをしている。大学では祖堅方正先生も教えていて、よく東京ブラスアンサンブルの練習を見学させていただいた。毎回圧倒させられた。津堅さんがN響に移籍するので東フィルに、と声をかけていただき4年秋に入団した。当時の東フィルの金管(Tp,Tb,Tub)はほとんど国立のOBで、学生の間では東フィルに入るのが夢だったし、オペラ・バレエなど、あらゆるジャンルの音楽を演奏できることとなり嬉しくて夢のようだった。同時に東京ブラスのメンバーにもなった。入団して東フィル事務局からいきなり首席を申し渡された。嬉しい気持ちは飛んでしまい、怖い先輩方に囲まれ毎日が針のむしろに座っている気分だった。常任指揮者だった尾高忠明氏にもオーケストラのことを多く教えていただいた(絞られた)。オケのあの席に座るだけのことに慣れるのでも3年はかかったような気がする。

A.ホラー先生のご自宅で

オケ8年目、どうしても古典、ロマン派の演奏に納得がいかず本場ウィーンへの留学を決め、ウィーン国立音大でアドルフ・ホラー教授に師事できた。レッスンは週2回。最初のレッスンで「おまえは今、ウィーンにいる。俺たちのスタイルを勉強しろ!」。ベートーベンを吹けるようになりたい私の思いと一致し充実した留学となった。レッスンは音楽表現のスタイル、音色、特に音符の長さ、吹き方には厳しかった。毎回「長い!短い!」こればかり・・。半年くらいたって何となく見えてきた。ウィーンは全てが自然だ。気負ったところも派手なパフォーマンスもない。このスタイル、音楽、音を体にしみ込ませよう!と週3回はオペラや演奏会に通った。留学から帰ってきた時、北村先生は言われた「留学を忘れず、スタイルのない日本と闘え、大変だぞ!」。なるほどと思う。

ラグの室内楽を舞台上で演奏
イギリス王室ロイヤルバレエ団公演で

その後、ウィーン国立歌劇場が来日した折金管セクションでのウィーントランペットコアーを聞いた。衝撃だった。大学の後輩の植木君(シティフィル)にもちかけ東京トランペットコアーを結成した。ウィーンフィルの方々とも数回共演させていただき、楽譜まで協力していただいている。また、津堅さんの呼びかけでトランペット5もやらせていただいた。本当によく練習した。オケの本番後でも夜中まで合わせをした。素晴らしい仲間だった。東京ファイン金管5重奏も数年続いた。大変楽しい仲間だった。忙しいスケジュールの中でよくやっていたと思う。

オケを約30年続けたところで、大阪の相愛大学からお話をいただき、これまでの経験を後進に伝える時間が少しでも長いほうが良いと考え、現在に至っている。学生と音楽や楽器の話をし、共に勉強し、充実した日々を過ごしている。また、この10月に関西トランペット協会の発足に参加できたことも大きな喜びである。

飯塚一郎
 


A.ハーセス氏と
(元シカゴ響トランペット奏者)
ITGアメリカでのインターナショナルトランペットギルド参加の時

   

歌舞伎の馬の上でこんな恰好でアイーダラッパを吹きました。1984年頃:NHKテレビ「音楽の広場」に出演、司会は黒柳徹子氏。尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団。